2006-10-30

源氏物語 夕顔
※原文訳文ともに、一部省略があります。
【訳文】
□文中より□
「たしかにぼくが狐で、きみをだましているのかもしれない。もしかするときみが狐でぼくをだましているのかな。でも、だまされるのも素敵だよ」とやさしくおっしゃる。女の心は溶けつくし・・・

夕 顔
 六条あたりに住む女のところにこっそりとお通いになっていたころ、見舞いのため、となりの五条にお立ち寄りになることがあった。そこでは、重病の乳母が養生していた。

 屋敷につくとお車が入るべき正門が閉まっている。そこで、中で母の看病をしている惟光(これみつ)を呼んで門を開けさせることにした。惟光とこの君(きみ)は、ひとつの乳房をわけあったいわゆる乳兄弟(ちきょうだい)であり、ともに成長したいまは、固い主従の契りを結んでいる。

 彼を待っている間、何気なくあたりの貧しい家並み(やなみ)をごらんになると、となりに、簡素ながらもあたらしく塀をもうけ、窓を四、五間ほどあけはなち、白く涼しげなすだれをかけた家があった。すだれのむこうには女たちが髪を美しくなびかせて歩いている。腰から下が見えないので背が高そうに見え、すこし変だ。

 宮中とはうってかわったこんな所には、いったいどんな者たちが住んでいるのだろう。身分をかくすために、車の格をおとし、先導の者もつけていないので、私とわかる者がいるはずもなかろう。

 そこで、車の窓をすこしあけてこの家をご覧になると、入り口は門というよりは窓であり、門からはすぐに建物になる、そんな貧しい住まいであった。でも、『あなたがいれば、そこがわが家』という流行歌(はやりうた)を吟(ぎん)ずると、きらびやかな御殿もわびずまいも所詮は同じか、と思われるのだった。

 青々としたツタが家の板壁をはいまわる中、白い花が一輪、にっこりと咲いている。 『その白い花は何の花』 と、つぶやくようにお歌いになると、この方を警護する武者(むしゃ)がひざまづき、「あそこに白く咲いているのを夕顔と申します。人のような名まえですが、このようにみすぼらしい垣根に咲きます。」とご説明申し上げる。

 武者のことばどおり、むさくるしい小さな家ばかりの中でも、とりわけ今にもくずれそうな家の軒先にからみついて、花が咲いている。

 「美しいのに。この花の宿命(さだめ)はなんともあわれじゃ。ひとつ採(と)ってまいれ。」とおっしゃったので、武者はあの窓のような貧相な門から入って花をつむ。すると、けっこうおしゃれな戸口から、涼しげな黄色のうすぎぬを見事に着こなした美しい童女が出て手招きをする。香をたきしめた白い扇を見せ、「これにのせて献上してください。たいした花でもございませんので」といって武者に渡した。下賎な武者からは直接このお方に花を手渡すことはできないが、ちょうど惟光が門をあけて出てきたので、彼が受け取って花を差し上げた。

 「門の鍵がなかなか見つからなかったものですから、ずいぶんお待たせして申し訳ございません。あなたさまだと見抜くような人物がいる場所ではありませんが、こんなけがらわしい通りにしばしでもお一人でいらっしゃるとは」と、惟光は恐縮しきっている。
     門から車を入れ、下車なさる。

・・・そして乳母の見舞いをすませたのち、また車に乗って帰宅するとき・・・
 先ほどの扇をご覧になると、持ち主の移り香もかぐわしく、扇の裏には歌が一首、優雅な筆づかいでしるされている。
   もしかして名高いあなたさまでは
   白露の光が加わりますます白く輝く
   夕顔の花のようなお姿からそう思います
      心(こころ)あてにそれかとぞ見る
      白露(しらつゆ)の光(ひかり)そへたる夕顔の花

 墨のあとはしっとりとして品がよい。こんなところにまさかこのような小粋(こいき)な女がいようとは、と意外にお思いになった。

 惟光に「この西どなりには誰が住んでいるのか、知っておるか」とお尋ねになる。惟光は、またご主人の悪いくせが始まったと思ったが、正直に言うわけにもいかず、とりあえず「ここ数日ここにおりますが、病人にかかりっきりで、隣のことなんかわかりません」と答えておくと、「めんどうくさいと思っているのだろう。まあ許せ。この扇のことで確認したいことがあるので、近所の者に聞いてみよ」とお命じになったので、惟光は家の管理人を呼んでたずね、あらましを報告した。

 「揚名介(ようめいのすけ)をつとめる者の家でした。主人は地方に行っております。その妻は若くて派手ずきで、その姉か妹に宮仕え人(みやづかえびと)がおり、この家によく来るとのことです。それ以上のことは下々にはわかりかねるようです」

  それでは女はその宮仕え人なのだろう、わけ知りぶってなれなれしい歌をよこしたものよ、身分もきっと低かろう、とお思いになったが、私だと見破って歌をよこしたのはかわいいじゃないか、ほっとくわけにもいくまい。恋のことになると何も気にしないのがこの君(きみ)のよいところ。筆跡を変え自分だとわからないようにして懐紙(ふところがみ)に、

   ほんとうに私かどうか確かめてみれば
   夕暮れどきにほのかに見えた夕顔の花よ
     寄りてこそそれかとも見め
     たそがれにほのぼの見つる花の夕顔

と書いて、さきほどの警護の武者を通じて女たちのところに贈った。

 女たちは、このお方の顔を知るよしもないが、はっきりそれとわかる美しいお顔を見逃さず声をおかけしたのである。しかし、返事がなかったのできまりわるく思っていたところ、このようにけっこう気のあるそぶりの歌が届いたので、女たちは一気に緊張が解け、「どうご返事しようか」とあれこれ話しあっているらしい。それを見た武者は、うっとおしいやつらだ!と思って返事をもらわないまま帰ってきた。
 行き先をてらすあかりも細めて、お車がこっそりと出て行く。

・・・こうして最初の出会いが終わったが、六条の女(六条御息所ろくじょうのみやすんどころ)に通う途中でこの家の前を通るので、光源氏は住む者の素性を知りたいと思っていたところ、惟光が数日後に報告する。それによれば、若い侍女たちにかしづかれる人がいるらしい・・・

 「昨日の夕方、家にさしこんだ日の光で、机にむかってなにかを書いている人の顔がはっきり見えました。思いに沈んでいるようすで、そばにひかえる侍女たちも、しくしくと泣いておりました。それもはっきり見えましたぞ」と申し上げると、この方はにっこりと笑って、もっと知りたいものだとお思いになる。

 その様子を見て惟光は思う。世評を考えれば身を慎んでいただかないと困るが、まだお若いし、その魅力にどんな人もまいってしまうのだから、この方が恋をなさらないとかえって無骨というもの。浮気する余裕もない低い身分の男でさえ、いい女のことになるとつい心が動くのだからなあ。

 「いささかでも情報が得られればと思いまして、侍女に言い寄って手紙などを交わしております。するとなかなかの墨づかいですぐに返事を返してきます。まんざらでもない女たちが仕えているようですぞ」と申し上げると、「そのまま探索を続けておくれ。ここまできたら確かめないと中途半端だ」とおっしゃる。家のかまえこそ「下の下(げのげ)」だが、そのなかには意外な人がいそうだと、おこころはときめくばかりである。

 ・・・一方、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)に対しては、いったん関係を結ぶと愛が冷めていく。しかし御息所の方はいやましに燃え上がり、思いつめ、源氏のおとずれがないことをうらむ。その反面、夕顔の花の家のことについては着々と調査が進んでいた・・・

 惟光は、みずからに課せられた任務をきわめて忠実に実行し、女の家の事情を調べ上げて報告した。彼は、君命にすこしでもそむくまいとする一方で、自分もぬかりなく侍女とよい思いをし、虚実とりまぜて話をとりまとめ、そのおかげで彼のご主人はこの家に通い始めることができた。そのあたりの事情はいつもどおり省略する。
         ☆  ☆
 女のことは詮索しないとおきめになったので、ご自身も名を名乗らない。ことさらに身をやつし、車にも乗らず歩いて行こうとなさる。これはいつもの恋とは違う、ご主人はずいぶんこの女にほれているなと思われたので、惟光は愛馬をゆずり、自分は歩いてお供した。

 「格好悪いところを恋の相手に見られるのだけは、かんべんしてくださいよ」と惟光はしきりになげくが、ご主人は、夕顔の花の由来を説明してこのたびの恋のきっかけを作った例の武者と、あとは童子一人だけを供とするだけで、ほかの誰にもこの忍び歩きは知らせない。素性がばれてはいけないと、隣の乳母の養生先にも立ち寄らない。

 これほどお忍びを徹底されると女のほうも不審に思い、お手紙の使いの後をつけさせたり、朝のお帰りのあとを追ったりしてお住まいを確かめようとするが、いつもまかれてしまう。このようにご自身の身元は固く秘していながら、愛はますます深まっていく。いつも彼女のことばかり思い、会わないではいられない。われながら軽薄で困ったことだ、と反省しつつ、やはり毎日通わないとつらい。

 このような恋は普段女気(おんなけ)のない男でも乱れることがあるものだが、この君(きみ)は十分に節制なさり、これまで世間の非難を受けたことがない。ところがこのたびは、ご自身でも不思議に思うほど、朝の別れもつらいし、会える夜を待つのもつらい。そこでこの恋心(こいごころ)を冷ますため、「なにもかも忘れてまでほれ込むような女ではないはずだ」と考えようとするが、女の魅力には抵抗しがたい。彼女は万事におだやかで、とげとげしいところがない。大人びた気遣いをせずいささか幼稚でもあるが、男を知らないわけでもない。「高貴な女性でもないのに、いったいこの女のどこに魅かれてしまうのだろう」と何度もお考えになるのだった。

 やむをえない用事で会えない夜などは、胸がしめつけられる。もうよい、自分の素性を隠したままわがやかたに迎えよう、このことが漏れてまずいことになったとしても、それは運命だ。ここまで女にほれたことはない。われながらいったいどうしたことか。

 「さあ、もっとくつろげるところに行こう。そこで二人だけですごさないか」と女を抱きしめながらおっしゃると、女は、「信用できません。お言葉はありがたいのですが、あなたが普通のお方とも思えないので、ちょっとこわい」とまるで子供のように言う。こう言われると、それもそうだな、と苦笑いをうかべざるを得ないが、ここでひるまず、「たしかにぼくは狐できみをだましているかもしれない。もしかするときみが狐かな。でもだまされるのも素敵だよ。」とやさしくおっしゃる。すると女の心は溶けつくし、そうなってもかわまないと思ってしまう。そんな女をみつめ、「ほかのすべてが欠けているとしても、ひたすら私を慕ってくれる気持ちはいとしくてたまらない」とお思いになる。

 ・・・こうして時がすぎ、こよいは・・・
 中秋の満月の夜。月光が板壁のすきまから差し込む。こんな住まいもあるのか、悪くないなあ、とお思いになっていると、夜明けが近づいたのだろう、近所の下賎な者たちが目をさまし、

 「今朝はずいぶん冷えるねえ」
 「今年の景気はまったくだめだね。行商してももうかりそうもないから、ふところもさびしいわい。北さーん、聞いてる?」 

などという会話が聞こえる。ささやかなくらしを始めるために今朝もガサゴソと起きだす人々の息づかいがすぐ隣から聞こえるので、女はとても恥ずかしく思う。派手好きな気取り屋さんならいっそ死んでしまいたいと思うような状況である。しかし、女は万事におっとりしており、苦しいことも、つらいことも、恥ずかしいことも、まったく気にならないようだ。この君(きみ)へのうけこたえも、気品を保ちつつ無邪気で、隣がなにゆえにさわがしいのか少しもわかっていない様子なので、かえって、恥じいるよりは罪がない。


 ゴロゴロという臼の音もしとねのすぐそばから聞こえる。かみなりより大きい。「なんてうるさいんだ」と、これにはさすがにお困りになる。それが何の音かこのかたにわかるよしもなく、変な騒音としてしかお聞きにならない。トントンというきぬうつ音もあちらこちらから聞こえ、雁(かり)の鳴く声もがまんしがたい。こんなわずらわしいことばかりである。

 狭い家なので、いらっしゃる場所も庭のすぐそばである。そこで、引き戸をあけて女といっしょに外をご覧になる。小さな庭には、しゃれた唐竹(からたけ)が植えてあり、木の葉(このは)の朝露は宮中と同じように輝いている。虫たちの声はさわがしく、家の中のこおろぎでさえ、遠くに聞くような暮らしをしているお耳には、耳元で鳴いているようにやかましく聞こえる。めずらしいものだ、とかえって新鮮にお思いになるのも、浅からぬ愛のせい。すべての罪は許される。

 女は、白い袷(あわせ)にやわらかい薄紫の上着をかさね、華美ならぬその姿がとてもかわいらしいく、つい抱きしめてしまいたい。この女のどこがいいのか、と問われると答えようもないのだが、風にそよぐ花のようであり、ちょっとものをいっても、こちらの胸がしめつけられ、ただただかわいらしい。「彼女はもう少し自分を出した方が魅力的かなあ」、ともお感じになるが、やはりこのままの気取らない感じがよいとお思いになったので、「近くに秘密の場所があるんだ。そこで夜明けを迎えよう。ここではどうも落ち着かなくて」とおっしゃる。すると女はあっさりと、「無理です、そんな。急に言われても」と答える。そこで女の信頼を得るため、「来世でも君と一緒だよ」とまでおっしゃると、女のこころはとろけそうになる。そんな様子はほかの女とまったく違う。恋のかけひきに慣れているとも思われない。

 とうとう、人がなんと言おうとどうでもよくなり、右近という侍女を呼び、武者を呼び、ただちに出発すべくお車を家の中にいれさせる。女に仕える人たちも、男君(おとこぎみ)の愛情がたとえようもなく深いと感じているので、不安は残るが、彼を信頼するほかはない。

 満月は沈みかね、外はまだ明るい。それなのに、急に、「出よう」、とおっしゃるので、女はしぶる。女にあれこれと言いふくめるうちに、月に雲がかかる。空は白み始め、なんとも風情がある。すがたがあらわにならない前にと、いつものように出発を急ぎ、女を軽々と抱きかかえて車に乗せ、右近も乗る。ほどなく近くの屋敷にお着きになり、管理の者を呼んでいる間、あたりをご覧になる。正門はシダが上まで茂って朽ち果てており、とても暗い。霧も深く、露も多い。そのうえ車のまどまでおあけになったので、袖もすっかりぬれてしまった。

 「こんなことは初めてだ。
   むかしのひともこんなふうに迷ったか
   まだよく知らぬ夜明けの道に
      いにしへもかくやは人のまどひけむ
      我がまだ知らぬしののめの道
 きみは慣れているの?」とおっしゃる。女は一瞬顔を赤らめたが、

 「山の端(は)のこころも知らないでゆく月は
  上の空(うわのそら)で姿も消えそう
      山の端(は)の心も知らでゆく月は
      うはの空にて影(かげ)や絶えなむ わたしこわい」

 と言って恐怖におののいている。このようすをご覧になり、「普段はごみごみした所に住んでいるのだから、こんな広い邸宅がこわいのも無理なかろう」とお思いになる。

・・・この別荘でとろけるような一日を過ごし、夜になった・・・

 宵の刻も過ぎたころ、すこしまどろんでいらっしゃると、夢の中で枕もとに美しい女性がすわっていた。そして「私がこれほどあなたを愛しているのに、こちらにいらっしゃらないで、こんなどうでもよい女をつれ出して愛されるとは、とんでもない。なんと薄情な」と言って横にいるこの女をゆすっている。

 恐怖にかられて目をお覚ましになると、あかりも消えている。なんともいやな感じがしたので太刀をぬいてかたわらに置き、右近を起こす。彼女も恐怖にふるえ、そばに寄ってきた。「渡殿(わたどの)にいる宿直の者を呼んで、あかりをもってこちらに来るよう言ってきなさい」とおっしゃるのに対して、右近は「まっ暗なので、こわくて行けません」と答える。「子供じゃあるまいし」とお笑いになって手をたたくが、気味の悪い音がかえってくるだけで、だれも来ない。女君(おんなぎみ)はおののきふるえ、汗びっしょりになり、意識も失いかけている。右近が、「ちょっとしたことにもこわがるかたなので、いまはどれほどこわがっていらっしゃることか」と申し上げる。

 そういえば、彼女は昼間も空ばかりみつめていた、強くないんだ、この人は、自分がなんとかしなくては、とお思いになり、「わたしが行ってくる。手をたたいても変に響くだけだ。ここにしばらくいろ。もっと近くに来い」と言って右近を引き寄せ、西の戸を開けると、渡殿の灯も消えていた。風が少し吹いているせいだろうか。

 渡殿(わたどの)にいるのは管理人の息子、童子、それに例の武者(むしゃ)の三人だけで、しかもみんな寝入っている。管理人の息子の名をお呼びになると、「ただいま参ります!」と言ってやってきた。

 「あかりを持って来い。武者には、弓を鳴らし声をたてて邪気をはらえと言え。人家(じんか)のとだえたこんな場所で、のんきに寝るやつがあるか!惟光朝臣(これみつあそん)はどうした。来ているはずだが」とおっしゃると、「夕刻まではおりましたが、『用事もないようだし、ひとまず帰って夜明けにお迎えにくる』と申して帰りました」 この者はふだん宮中警護をつとめているので、たのもしげに弓の弦(つる)をならし「魔火(まび)退散!魔火退散!」と言いながら、管理人の父のところに行く。

 指示を与えて部屋にもどり暗闇の中を手探りすると、女君(おんなぎみ)は倒れたままであり、その横で右近がふせっている。

 「そんなにこわがることはないぞ!荒れはてたところでは狐たちが人をこわがらせるという。私がいるからそんなやつは平気だ!」と言って女たちを起こすが、右近しか答えない。「気分が悪くて起きていられません。ご主人の方がもっと混乱しているでしょう」「そうだ。わが君!起きなさい!どうしてこれほどこわがるのだ」と言って手探りするが、女君はもう息をしていない。ゆすってみるが、なされるがままで、意識もないようだ。童女のような彼女のことだから、もののけにたましいを奪われたに違いない、こんなときどうすればよいのか!

 息子が明かりをもってきた。右近が動けないので几帳(きちょう)をひきよせて女君をかくし、「もっと近くに持って来い。」とお命じになる。しかし息子の身分でこの方に近づくわけにはいかず、部屋の手前にも行けない。「もっと近くに!遠慮している場合じゃない」といってあかりをちかづけさせる。すると、夢で見た女がそのままの姿で枕もとにあらわれ、ふっと消えた。物語で読んだことはあるが、まさか本当に見るとは。心の底から恐怖を感じたが、この人のことが心配でたまらず、夢中で女君を抱きしめ、起きてください!しっかり!と大声で励まされる。しかし息はすでに絶えており、体は冷たくなるばかりだった。

 もうどうしようもない。こんなときに頼りになる人もいない。法師でもいればこんなとき役に立つのだろうが。

 強がってはいらっしゃったが、やはりまだ子供である。目の前の光景をただ見つめるほかはなく、つらくてたまらない。女君を抱きしめ、「いとしい人よ。息をしてください。わたしを悲しませないで」とおっしゃるが、肉体は冷え切ってしまい、すでに死人の様相である。


【原文】
 六条わたりの御(おん)忍(しの)び歩(あり)きのころ、内裏(うち)よりまかでたまふ中宿(なかやどり)に、大弐(だいに)の乳母(めのと)のいたくわづらひて尼(あま)になりにける、とぶらはむとて、五条なる家たずねておはしたり。

 御車(おんくるま)入(い)るべき門(かど)は鎖(さ)したりければ、人して惟光(これみつ)召(め)させて、待たせたまひけるほど、むつかしげなる大路(おほぢ)のさまを見わたしたまへるに、この家のかたはらに、桧垣(ひがき)といふもの新(あたら)しうして、上(うへ)は半蔀(はじとみ)四五間ばかり上(あ)げわたして、簾(すだれ)などもいと白う涼しげなるに、をかしき額(ひたひ)つきの透影(すきかげ)、あまた見えてのぞく。立ちさまよふらむ下(しも)つ方(かた)思ひやるに、あながちに丈(たけ)高き心地(ここち)ぞする。いかなる者の集(つど)へるならむと、様(やう)かはりて思(おぼ)さる。

 御車(おんくるま)もいたくやつしたまへり、前駆(さき)も追はせたまはず、誰(た)れとか知らむとうちとけたまひて、すこしさしのぞきたまへれば、門(かど)は蔀(しとみ)のやうなる、押し上げたる、見入(い)れのほどなく、ものはかなき住まひを、あはれに、「いづこかさして」と思(おも)ほしなせば、玉(たま)の台(うてな)も同じことなり。

 切懸(きりかけ)だつ物に、いと青やかなる葛(かづら)の心地(ここち)よげに這(は)ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑(ゑ)みの眉(まゆ)ひらけたる。

 「遠方(をちかた)人(びと)にもの申す」と独りごちたまふを、御(み)隋身(ずいじん)ついゐて、
 「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ咲きはべりける」 と申す。げにいと小家(こいへ)がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒(のき)のつまなどに這(は)ひまつはれたるを、
 「口惜(くちを)しの花の契(ちぎ)りや。一房(ひとふさ)折りてまゐれ」 とのたまへば、この押(お)し上げたる門(かど)に入(い)りて折る。

 さすがに、されたる遣戸口(やりとぐち)に、黄(き)なる生絹(すずし)の単袴(ひとへばかま)、長く着なしたる童(わらは)の、をかしげなる出(い)で来(き)て、うち招く。白き扇(あふぎ)のいたうこがしたるを、
 「これに置(お)きて参(まゐ)らせよ。枝(えだ)も情(なさ)けなげなめる花を」
 とて取らせたれば、門(かど)開(あ)けて惟光(これみつ)朝臣(あそむ)出(い)で来たるして、奉(たてまつ)らす。

 「鍵(かぎ)を置きまどはしはべりて、いと不便(ふびん)なるわざなりや。もののあやめ見たまへ分(わ)くべき人もはべらぬわたりなれど、らうがはしき大路(おほぢ)に立ちおはしまして」とかしこまり申す。
 引き入れて、下りたまふ。
  ・・・ ・・・
 ありつる扇(あふぎ)御覧(ごらん)ずれば、もて馴(な)らしたる移(うつ)り香(が)、いと染(し)み深(ふか)うなつかしくて、をかしうすさみ書きたり。

 「心(こころ)あてにそれかとぞ見る白露(しらつゆ)の  光(ひかり)そへたる夕顔の花」

 そこはかとなく書き紛(まぎ)らはしたるも、あてはかにゆゑづきたれば、いと思ひのほかに、をかしうおぼえたまふ。惟光(これみつ)に、

 「この西(にし)なる家は何人(なにびと)の住むぞ。問ひ聞きたりや」
 とのたまへば、例(れい)のうるさき御心(おんこころ)とは思へども、えさは申さで、
 「この五、六日(いつかむいか)ここにはべれど、病者(びょうじゃ)のことを思うたまへ扱(あつか)ひはべるほどに、隣のことはえ聞きはべらず」
 など、はしたなやかに聞(き)こゆれば、
 「憎しとこそ思ひたれな。されど、この扇の、たずぬべきゆゑありて見ゆるを。なほ、このわたりの心知れらむ者を召して問へ」
 とのたまへば、入(い)りて、この宿守(やどもり)なる男を呼びて問ひ聞く。

 「揚名介(やうめいのすけ)なる人の家になむはべりける。男(おとこ)は田舎(ゐなか)にまかりて、妻(め)なむ若く事(こと)好みて、はらからなど宮仕人(みやづかへびと)にて来(き)通(かよ)ふ、と申す。くはしきことは、下人(しもびと)のえ知りはべらぬにやあらむ」と聞こゆ。
 「さらば、その宮仕人(みやづかへびと)ななり。したり顔(がほ)にものなれて言へるかな」と、「めざましかるべき際(きは)にやあらむ」と思(おぼ)せど、さして聞こえかかれる心の、憎からず過ぐしがたきぞ、例(れゐ)の、この方(かた)には重からぬ御心(おんこころ)なめるかし。御(おん)畳紙(たたうがみ)にいたうあらぬさまに書き変へたまひて、

 「寄りてこそそれかとも見め たそがれに  ほのぼの見つる花の夕顔」
 ありつる御随身(みずいじん)して遣(つか)はす。

 まだ見ぬ御(おん)さまなりけれど、いとしるく思ひあてられたまへる御側目(おんそばめ)を見過(みす)ぐさで、さしおどろかしけるを、答(いら)へたまはでほど経(へ)ければ、なまはしたなきに、かくわざとめかしければ、あまえて、「いかに聞こえむ」など言ひしろふべかめれど、めざましと思ひて、随身(ずいじん)は参(まゐ)りぬ。

 御前駆(おんさき)の松明(まつ)ほのかにて、いと忍びて出(い)でたまふ。
    ・・・ ・・・
 「昨日、夕日のなごりなくさし入(い)りてはべりしに、文(ふみ)書くとてゐてはべりし人の、顔こそいとよくはべりしか。もの思へるけはひして、ある人びとも忍びてうち泣くさまなどなむ、しるく見えはべる」
 と聞こゆ。君うち笑(ゑ)みたまひて、「知らばや」と思(おも)ほしたり。

 おぼえこそ重かるべき御身(おんみ)のほどなれど、御(おん)よはひのほど、人のなびきめできこえたるさまなど思ふには、好きたまはざらむも、情けなくさうざうしかるべしかし。人のうけひかぬほどにてだに、なほ、さりぬべきあたりのことは、このましうおぼゆるものを、と思ひをり。

 「もし、見たまへ得(う)ることもやはべると、はかなきついで作り出(い)でて、消息(せうそこ)など遣(つか)はしたりき。書き馴れたる手して、口とく返り事(かへりごと)などしはべりき。いと口惜(くちを)しうはあらぬ若人(わかうど)どもなむはべるめる」
 と聞(き)こゆれば、 
 「なほ言ひ寄れ。尋(たづ)ね寄らでは、さうざうしかりなむ」とのたまふ。

 かの、下が下(しもがしも)と、人の思ひ捨てし住まひなれど、その中にも、思ひのほかに口惜(くちを)しからぬを見つけたらばと、めづらしく思(おも)ほすなりけり。
  ・・・ ・・・
 まことや、かの惟光(これみつ)が預(あづか)りのかいま見(み)はいとよく案内(あない)見取りて申す。惟光(これみつ)、いささかのことも御心(おんこころ)に違(たが)はじと思ふに、おのれも隈(くま)なき好き心(すきごころ)にて、いみじくたばかりまどひ歩きつつ、しひておはしまさせ初(そ)めてけり。このほどのこと、くだくだしければ、例のもらしつ。

 女、さしてその人と尋(たず)ね出(い)でたまはねば、我も名のりをしたまはで、いとわりなくやつれたまひつつ、例(れゐ)ならず下(お)り立ちありきたまふは、おろかに思(おぼ)されぬなるべし、と見れば、我が馬(むま)をばたてまつりて、御供(おんとも)に走りありく。

 「懸想人(けさうびと)のいとものげなき足もとを、見つけられてはべらむ時、からくもあるべきかな」とわぶれど、人に知らせたまはぬままに、かの夕顔のしるべせし随身(ずゐじん)ばかり、さては、顔むげに知るまじき童(わらは)ひとりばかりぞ、率(ゐ)ておはしける。「もし思ひよる気色(けしき)もや」とて、隣(となり)に中宿(なかやどり)をだにしたまはず。

 女も、いとあやしく心得(こころえ)ぬ心地(ここち)のみして、御使(おんつかひ)に人を添へ、暁(あかつき)の道をうかがはせ、御(おん)ありか見せむと尋(たづ)ぬれど、そこはことなくまどはしつつ、さすがにあはれに、見ではえあるまじくこの人の御心(おんこころ)にかかりたれば、便(びん)なくかろがろしきことと、思(おも)ほし返しわびつつ、いとしばしばおはします。

 かかる筋(すぢ)は、まめ人(びと)の乱るる折(をり)もあるを、いとめやすくしづめたまひて、人のとがめきこゆべき振る舞ひはしたまはざりつるを、あやしきまで、今朝(けさ)のほど、昼間(ひるま)の隔(へだ)ても、おぼつかなくなど、思ひわづらはれたまへば、かつは、いともの狂ほしく、さまで心とどむべきことのさまにもあらずと、いみじく思ひさましたまふに、人のけはひ、いとあさましくやはらかにおほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。いとやむごとなきにはあるまじ、いづくにいとかうしもとまる心ぞ、と返す返す思(おぼ)す。

 人目を思(おぼ)して、隔(へだ)ておきたまふ夜(よ)な夜(よ)ななどは、いと忍びがたく、苦しきまでおぼえたまへば、「なほ誰(た)れとなくて二条院に迎へてむ。もし聞こえありて便(びん)なかるべきことなりとも、さるべきにこそは。我が心ながら、いとかく人にしむことはなきを、いかなる契(ちぎ)りにかはありけむ」など思(おも)ほしよる。

 「いざ、いと心安き所にて、のどかに聞こえむ」 など、語らひたまへば、 「なほ、あやしう。かくのたまへど、世(よ)づかぬ御(おん)もてなしなれば、もの恐ろしくこそあれ」 と、いと若びて言へば、「げに」と、ほほ笑(ゑ)まれたまひて、
 「げに、いづれか狐(きつね)なるらむな。ただはかられたまへかし」
 と、なつかしげにのたまへば、女もいみじくなびきて、さもありぬべく思ひたり。「世になく、かたはなることなりとも、ひたぶるに従ふ心は、いとあはれげなる人」と見たまふ。
 ・・・ ・・・
 八月(はづき)十五夜(とをかあまりいつかのよ)、隈(くま)なき月影(つきかげ)、隙(ひま)多かる板屋(いたや)、残りなく漏りて来て、見慣らひたまはぬ住まひのさまも珍しきに、暁(あかつき)近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき賤(しづ)の男(を)の声々、目さまして 

 「あはれ、いと寒しや」
 「今年こそ、なりはひにも頼むところすくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿(きたどの)こそ、聞きたまふや」

 など、言ひ交はすも聞こゆ。

 いとあはれなるおのがじしの営みに起き出(い)でて、そそめき騒ぐもほどなきを、女いと恥づかしく思ひたり。

 艶(えん)だち気色(けしき)ばまむ人は、消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし。されど、のどかに、つらきも憂(う)きもかたはらいたきことも、思ひ入(い)れたるさまならで、我(わ)がもてなしありさまは、いとあてはかにこめかしくて、またなくらうがはしき隣(となり)の用意なさを、いかなることとも聞き知りたるさまならねば、なかなか、恥ぢかがやかむよりは、罪(つみ)許されてぞ見えける。

 ごほごほと鳴る神(なるかみ)よりもおどろおどろしく、踏み轟(とどろ)かす唐臼(からうす)の音も枕上(まくらがみ)とおぼゆる。「あな、耳かしかまし」と、これにぞ思(おぼ)さるる。何の響きとも聞き入(い)れたまはず、いとあやしうめざましき音(おと)なひとのみ聞きたまふ。くだくだしきことのみ多かり。

 白妙(しろたへ)の衣(ころも)うつ砧(きぬた)の音も、かすかにこなたかなた聞きわたされ、空飛ぶ雁(かり)の声、取り集めて忍びがたきこと多かり。端近(はしぢか)き御座所(おましどころ)なりければ、遣戸(やりど)を引きあけて、もろともに見出(い)だしたまふ。ほどなき庭に、されたる呉竹(くれたけ)、前栽(せんざい)の露は、なほかかる所も同じごときらめきたり。虫の声々乱りがはしく、壁のなかのきりぎりすだに間遠(まどほ)に聞き慣らひたまへる御耳(おんみみ)に、さし当てたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさまかへて思さるるも、御心(おんこころ)ざし一つの浅からぬに、よろづの罪許さるるなめりかし。

 白き袷(あはせ)、薄色(うすいろ)のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿、いとらうたげにあえかなる心地して、そこと取り立ててすぐれたることもなけれど、細(ほそ)やかにたをたをとして、ものうち言ひたるけはひ、「あな、心苦し」と、ただいとらうたく見ゆ。心ばみたる方をすこし添へたらば、と見たまひながら、なほうちとけて見まほしく思(おぼ)さるれば、 

 「いざ、ただこのわたり近き所に、心安くて明かさむ。かくてのみは、いと苦しかりけり」とのたまへば、
 「いかでか。にはかならむ」
 と、いとおいらかに言ひてゐたり。この世のみならぬ契りなどまで頼めたまふに、うちとくる心ばへなど、あやしくやう変はりて、世なれたる人ともおぼえねば、人の思はむ所もえ憚(はばか)りたまはで、右近(うこん)を召し出(い)でて、随身(ずゐぢん)を召させたまひて、御車(おんくるま)引き入(い)れさせたまふ。このある人びとも、かかる御心(おんこころ)ざしのおろかならぬを見知れば、おぼめかしながら、頼みかけきこえたり。

 いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを、女は思ひやすらひ、とかくのたまふほど、にはかに雲隠れて、明けゆく空いとをかし。はしたなきほどにならぬ先にと、例(れゐ)の急ぎ出(い)でたまひて、軽らかにうち乗せたまへれば、右近ぞ乗りぬる。

 そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出(い)づるほど、荒れたる門(かど)の忍ぶ草(ぐさ)茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗(こぐら)し。霧も深く、露けきに、簾(すだれ)をさへ上げたまへれば、御袖(おんそで)もいたく濡れにけり。

 「まだかやうなることを慣らはざりつるを、心尽(づ)くしなることにもありけるかな。

  いにしへもかくやは人のまどひけむ
  我がまだ知らぬしののめの道
慣らひたまへりや」とのたまふ。女、恥ぢらひて、

 「山の端(は)の心も知らでゆく月は
  うはの空にて影(かげ)や絶えなむ
 心細く」
 とて、もの恐ろしうすごげに思ひたれば、「かのさし集(つど)ひたる住まひの慣らひならむ」と、をかしく思(おぼ)す。
     ・・・ ・・・
 宵(よひ)過ぐるほど、すこし寝入(ねい)りたまへるに、御枕上(おんまくらがみ)に、いとをかしげなる女ゐて、


 「己(おの)がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思(おも)ほさで、かく、ことなることなき人を率(ゐ)ておはして、時(とき)めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」 とて、この御(おん)かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。

 物に襲(おそ)はるる心地(ここち)して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。うたて思(おぼ)さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて、参り寄れり。

 「渡殿(わたどの)なる宿直人(とのゐびと)起こして、『紙燭(しそく)さして参れ』と言へ」とのたまへば、
 「いかでかまからむ。暗うて」と言へば、
 「あな、若々し」と、うち笑(わら)ひたまひて、手をたたきたまへば、山彦(やまびこ)の答ふる声、いとうとまし。人え聞きつけで参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとどになりて、我(われ)かの気色(けしき)なり。

 「物怖(ものお)ぢをなむわりなくせさせたまふ本性(ほんせう)にて、いかに思(おぼ)さるるにか」と、右近も聞(き)こゆ。「いとか弱くて、昼も空(そら)をのみ見つるものを、いとほし」と思して、
 「我(われ)、人を起こさむ。手たたけば、山彦の答ふる、いとうるさし。ここに、しばし、近く」
 とて、右近を引き寄せたまひて、西の妻戸(つまど)に出(い)でて、戸を押しあけたまへれば、渡殿(わたどの)の火も消えにけり。

 風すこしうち吹きたるに、人は少なくて、さぶらふ限りみな寝たり。この院の預りの子、むつましく使ひたまふ若き男、また上童(うへわらは)ひとり、例の随身(ずゐぢん)ばかりぞありける。召せば、御答へ(おこた)して起きたれば、
 「紙燭(しそく)さして参れ。『随身も、弦打(つるうち)して、絶えず声(こわ)づくれ』と仰(おお)せよ。人離れたる所に、心とけて寝(い)ぬるものか。惟光(これみつ)朝臣(あそん)の来(き)たりつらむは」と、問はせたまへば、
 「さぶらひつれど、仰せ言(おほせごと)もなし。暁(あかつき)に御迎(おむか)へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬる」と聞(き)こゆ。この、かう申す者は、滝口(たきぐち)なりければ、弓弦(ゆづる)いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが曹司(ざうし)の方(かた)に去(い)ぬなり。

 帰り入(い)りて、探りたまへば、女君はさながら臥(ふ)して、右近はかたはらにうつぶし臥(ふ)したり。 「こはなぞ。あな、もの狂(ぐる)ほしの物怖(ものを)ぢや。荒れたる所は、狐などやうのものの、人を脅(おび)やかさむとて、け恐ろしう思(おも)はするならむ。まろあれば、さやうのものには脅(おびやか)されじ」とて、引き起こしたまふ。
 「いとうたて、乱(みだ)り心地(ごこち)の悪(あ)しうはべれば、うつぶし臥(ふ)してはべるや。御前(おまへ)にこそわりなく思(おぼ)さるらめ」と言へば、
 「そよ。などかうは」とて、かい探りたまふに、息もせず。引き動かしたまへど、なよなよとして、我(われ)にもあらぬさまなれば、「いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめり」と、せむかたなき心地(ここち)したまふ。

 紙燭(しそく)持て参(まゐ)れり。右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳(みきちょう)を引き寄せて、
 「なほ持て参れ」 とのたまふ。例(れゐ)ならぬことにて、御前(おまへ)近くもえ参らぬ、つつましさに、長押(なげし)にもえ上らず。
 「なほ持て来(こ)や、所(ところ)に従ひてこそ」
 とて、召し寄せて見たまへば、ただこの枕上(まくらがみ)に、夢に見えつるかたちしたる女、面影(おもかげ)に見えて、ふと消え失(う)せぬ。

 「昔の物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、まづ、「この人いかになりぬるぞ」と思(おも)ほす心騒(こころさわ)ぎに、身(み)の上(うへ)も知られたまはず、添ひ臥(ふ)して、「やや」と、おどろかしたまへど、ただ冷(ひ)えに冷え入(い)りて、息は疾(と)く絶え果てにけり。

 言はむかたなし。頼もしく、いかにと言ひ触(ふ)れたまふべき人もなし。法師などをこそは、かかる方(かた)の頼もしきものには思(おぼ)すべけれど。さこそ強がりたまへど、若き御心(おんこころ)にて、いふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱(いだ)きて、 「あが君(きみ)、生き出(い)でたまへ。いといみじき目な見せたまひそ」 とのたまへど、冷(ひ)え入(い)りにたれば、けはひものうとくなりゆく。

【語釈】 六条わたり=あたり の 御(おん)忍(しの)び歩(あり)き=こっそり女の家に通う・相手は六条(ろくじょうの)御息所(みやすんどころ=故人となった皇太子の妃) のころ、内裏(うち)=宮廷 よりまかで=退出 たまふ=なさる 中宿(なかやどり)=道中立ち寄る場所 に、大弐(だいに)の乳母(めのと)=光源氏の乳母 の=が いたくわづらひて=重病で 尼(あま)になりにける=出家しその効果で病気を治しているのを、とぶらはむ=見舞おう とて、五条なる=にある 家たずねておはしたり=いらっしゃった。 御車(おんくるま)入(い)るべき門(かど)=車がはいるべき正門 は 鎖(さ)したりければ=鍵がかかっているので、人して=従者を通じて・貴人はかならず従者を通じて情報の授受をする 惟光(これみつ)=光源氏の「めのとご」→古典のエッセンス№28 召(め)させて=呼ばせて、待たせたまひける=お待ちになっていた ほど=あいだ、むつかしげなる=ごみごみした 大路(おほぢ)=ここでは五条大路の さま=ようす を見わたし たまへるに=なさると、この家のかたはらに、桧垣(ひがき)=素材はヒノキだが粗末なかきね といふもの あたらしうして=新調して、上(うへ)は半蔀(はじとみ)=窓の上半分。上にあげてあける。 四五間ばかり=柱と柱の間が一間。数値は不明。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 上(あ)げわたして=横に全部あけて、簾(すだれ)などもいと白う涼しげなるに、をかしき=魅力的な 額(ひたひ)つき=額は額髪。額つきは髪型 の透影(すきかげ)=すだれごしに見える姿、あまた=たくさん 見えてのぞく=見える。立ちさまよふ=歩きまわっている らむ=だろう 下(しも)つ方(かた)=下半身 思ひやるに、あながちに=やたらと 丈(たけ)=身長 高き心地(ここち)ぞ=感じが する。いかなる=どのような 者の集(つど)へる=者が集まっている ならむ=のだろうか と、様(やう)かはりて=めずらしく 思(おぼ)さる=お思いになる。 御車(おんくるま)もいたく=とても やつし=みすぼらしく たまへり=なさり、前駆(さき)も=貴人の先導役も 追はせたまはず=おつけにならず、誰(た)れとか知らむ=私が誰だとわかろうか。わかるはずがない とうちとけ=くつろぎ たまひて=なさって、すこしさしのぞきたまへれば=車の窓から少しだけ外をご覧になると、 門(かど)は蔀(しとみ)のやうなる=門なのに窓ほどの大きさしかない、それほど貧相な門、押し上げたる=横に開くのではなく上にあげて出入りする、見入(い)れ=中を見る のほどなく=距離もないほど門から建物までの距離が短く、庭らしいものがない、ものはかなき=わびしい 住まひを、あはれに=さびしいものだと感じながらも、「いづこかさして=次の歌の一節「世の中はいづれかさしてわがならむ、行きとまるをぞ宿と定むる この世界のどこが(どの異性が)私のものなのだろう。泊めてくれるところがわが宿(恋人)なのだ」 と思(おも)ほしなせば=考えをおかえになると、玉(たま)の台(うてな)も=御殿も貧家と 同じことなり 切懸(きりかけ)だつ物=板塀のような壁 に、いと青やかなる葛(かづら)の=つたが 心地(ここち)よげに這(は)ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり 笑(ゑ)みの眉(まゆ)ひらけたる=ほほえんでいる。 「遠方(をちかた)人(びと)にもの申す=次の歌による「うち渡すをちかた人にもの申す、われそのそこに白く咲けるは何の花ぞも=そこにいるあなた、白く咲いている花は何の花ですか」と独りごちたまふを=つぶやきなさるのに対して、御(み)隋身(ずいじん)=貴人を警護する武者 ついゐて=ひざまづいて、 「かの白く咲ける=咲いている花 をなむ、夕顔と申しはべる=申します。花の名は人めきて=日人間のようで、かう=このように あやしき=みすぼらしい 垣根になむ咲きはべり=咲きます ける=詠嘆、~だなあ 」と申す。 げに=ほんとうに いと小家(こいへ)がち=とても小さい家ばかり に=で、むつかしげなる=不快な わたりの=あたりの、このもかのも=あちらもこちらも、あやしく=みすぼらしく うちよろぼひて=傾いており、むねむねしからぬ=ふけばとぶような 軒(のき)のつま=軒先 などに這(は)ひまつはれたる=からみついている様子 を=に対して、「口惜(くちを)しの=残念な 花の契(ちぎ)り=宿命 や=だなあ。一房(ひとふさ)折りてまゐれ=折って持って来い」 とのたまへば=おっしゃったので、この押(お)し上げたる門(かど)=横びらきでなく、板を上にあげて出入りする粗末な門 に入(い)りて=はいって 折る。 さすがに=(門の貧しさと)反対に、されたる=シャレた 遣戸口(やりとぐち)に=引き戸式の家の戸に、黄(き)なる生絹(すずし)の=うすぎぬの 単袴(ひとへばかま)=上下のころも、長く着なしたる=「なす」は「意識的に~する」。わざと長めに着た 童(わらは)の、をかしげなる=美少女の侍女が 出(い)で来(き)て、うち招く。白き扇(あふぎ)のいたうこがしたるを=香をたしきしめた白い扇を出して、 「これに置(お)きて=花をこの扇の上において 参(まゐ)らせよ=差し上げてください。枝(えだ)も情(なさ)けなげなめる=無粋な 花を=花なので」 とて取らせたれば=武者に渡すと、門(かど)開(あ)けて惟光(これみつ)朝臣(あそむ)出(い)で来たるして奉(たてまつ)らす=門を開けて中から出てきた惟光に渡して惟光が光源氏さまにさしあげる。(身分の低い武者から直接光源氏にものを手渡すことが許されないので、中間身分の惟光が取り次ぐ) 「鍵(かぎ)を置きまどはしはべりて=鍵がなかなか見つからなくて、いと不便(ふびん)なる=とても不都合な わざなりや=ことでした。もののあやめ見たまへ分(わ)くべき人=道理、貴賎、善悪などを判別できます人、ここでは源氏のような貴人をそれと識別できる人物 もはべらぬ=おりません わたり=あたり なれど、らうがはしき=雑然とした 大路(おほぢ)に=ここでは五条の大路に 立ちおはしまして=一人だけでいらっしゃって」とかしこまり申す=恐縮して申し上げる。 引き入れて下りたまふ=車を正門からいれてから光源氏さまが下車なさる。(あくまでも姿を見せていないというのが、次の展開のための前提。) ・ ・ ・ ありつる=さきほどの 扇(あふぎ)御覧(ごらん)ずれば=ごらんになると、もて馴(な)らしたる=持ち主の香りが持ち物に移る 移(うつ)り香(が)=その香りが、いと染(し)み深(ふか)う=扇にしっかりとしみこんでいて なつかしくて=その持ち主に会いたくなるほどで、をかしうすさみ書きたり=(歌を)自由に流れるような筆づかいで書いている。 「心(こころ)あてに=推測でそれか=(有名な光源氏)であろうか とぞ見る 白露(しらつゆ)の光(ひかり)そへたる=露の光が加わってよりいっそう輝く 夕顔の花」 そこはかとなく=書き手がだれと特定できないように 書き紛(まぎ)らはしたるも=ごまかして書いているのも、あてはかに=上品で ゆゑづきたれば=奥ゆかしいので、 いと思ひのほかに=(下賎な場所なので)とても意外に、をかしうおぼえたまふ=感動なさる。惟光(これみつ)に=、 「この西(にし)なる家=西どなりの家 は何人(なにびと)の=が 住むぞ=のか。問ひ聞きたりや=すでにたずねて知っているか」 とのたまへば=おっしゃると、例(れい)の=いつもの うるさき=またかと困るような 御心(おんこころ)=光源氏さまの色ごのみ とは思へども=思うが、えさは申さで=そのように(率直に)申し上げることはできず、 「この五、六日(いつかむいか)ここにはべれど=おりますが、病者(びょうじゃ)=病気の母 のことを思うたまへ扱(あつか)ひはべる=看病に専念しました ほどに=間なので、隣のことはえ聞きはべらず=聞くことができません」など、はしたなやかに=無愛想に 聞(き)こゆれば=申し上げると、 「憎し=憎たらしい とこそ思ひたれ=思っている  な。されど=しかし、この扇の=が、たずぬべきゆゑ=調べる理由が ありて見ゆるを=思われるので(事情を確かめるのだ)。なほ=(面倒くさいだろうが)やはり、このわたりの=あたりの 心知れらむ者=事情を知っている者 を召して問へ=呼び出してたずねよ」 とのたまへば=おっしゃると、入(い)りて、この宿守(やどもり)なる男=母の養生先の管理人 を呼びて問ひ聞く。 「揚名介(やうめいのすけ)なる=を拝命している 人の家になむはべりける=でございます。男(おとこ)は田舎(ゐなか)=地方 にまかりて=行って、妻(め)なむ若く事(こと)好みて=その妻が若くてはでずきで、はらから=その姉妹 など宮仕人(みやづかへびと)にて=宮中に出仕する人(やや軽蔑の意味がある)であって 来(き)通(かよ)ふ=(この西どなりの家に)よく来る、 と申す=申しております。くはしきことは、下人(しもびと)の=下々の者では  え知りはべらぬにやあらむ=知ることができないのでございましょう」 と聞こゆ=申し上げる。 「さらば=それならば、その宮仕人(みやづかへびと)ななり=(私の歌を贈ったのは)その宮づかえびとだろう。 したり顔(がほ)に=得意そうに ものなれて=なれなれしく 言へるかな=歌を作ったものだ」 と=と(お思いになり、また)、「めざましかるべき=心外な、がっかりするような(低い) 際(きは)=身分(の者) にやあらむ=であろう」 と思(おぼ)せど=お思いになるが、 さして=(光源氏さまだと)特定して 聞こえかかれる=ことばをおかけ申し上げた 心の=気持ちが、憎からず=かわいらしく 過ぐしがたき=見捨てがたいことは ぞ=まさに、例(れゐ)の=いつもの、この方(かた)には=この色恋の方面には 重からぬ=腰の軽い・すぐに手を出してしまう 御心(おんこころ)なめるかし=であろうね。 御(おん)畳紙(たたうがみ)に=懐紙に いたうあらぬさまに書き変へたまひて=書き手が自分だとわからないようにまったく筆跡を変えて、 「寄りてこそそれかとも見め=近くに来てはじめて本当にそれかどうか(私が光源氏かどうか)わかるだろう たそがれに=ゆうぐれどきに  ほのぼの見つる=ぼんやりと見えた 花の夕顔」 ありつる=さきほどの 御随身(みずいじん)して=警護の武者の手を通じて 遣(つか)はす=歌を贈った。 まだ見ぬ御(おん)さまなりけれど=(女たちは)みだ見ていない(光源氏さまの)お姿だが、いとしるく=とても明確に 思ひあてられたまへる=(女たちに)推測されなさった 御側目(おんそばめ)を=(光源氏さまの)横顔を 見過(みす)ぐさで=(女たちが)見逃さないで、さしおどろかしけるを=(光源氏さまだと)特定して気をひいたにもかかわらず、答(いら)へたまはで=(光源氏さまが)返事を贈らないで ほど経(へ)ければ=時間が過ぎてしまったので、なまはしたなきに=なんとなく決まり悪く感じていたが、 かく=このように わざとめかしければ=(女に)好意があるように見せてきたので、 あまえて=(これまでの緊張が解けて)とろけるようになって、 「いかに聞こえむ=どのようにご返事申し上げようか」 など言ひしろふ=議論している べかめれど=ようだったが、 めざましと思ひて=(女たちが思い上がっているように思えて)むっとして、 随身(ずいじん)は=武者は 参(まゐ)りぬ=(女の返事をもらわないまま光源氏さまのところに)帰ってきた。 御前駆(おんさき)の松明(まつ)=車の行く手を照らすたいまつの火も ほのかにて=わずかにして、 いと忍びて出(い)でたまふ=こっそりと街路に出て(六条の御息所のもとに行かれる)。    ・・・ 「昨日、夕日の=が なごりなく=あますところなく さし入りてはべりしに=部屋に差し込んでおりまして、文(ふみ)=手紙を 書くとてゐてはべりし=座っていました 人の顔こそいとよくはべりしか=女性の顔は最高でした。 もの思へるけはひして=悩んでいる様子で、 ある人びとも=そばに仕えている女たちも 忍びてうち泣くさま=しくしくともらい泣きをしている様子 などなむ=などが、 しるく=はっきり 見えはべる=見えました」 と聞こゆ=申し上げる。 君うち笑(ゑ)みたまひて=光源氏さまはにっこりとほほえみ、 「知らばや=(もっと)知りたい」 と思ほしたり=お思いになった。 おぼえ=世評 こそ重かるべき=は尊重すべき 御身(おんみ)のほどなれど=光源氏さまのご身分だが、 御(おん)よはひのほど=(まだ十七歳という)年齢の程度や、 人のなびきめできこえたるさまなど思ふには=他人が魅了され賞賛するようすなども考えると、 好きたまはざらむも=色ごのみをされないのも、 情けなく=興ざめで さうざうしかるべし=ものたりないはずだ かし=よ。 人のうけひかぬほど=(こんな男が浮気するなど)許されないとされる(低い)身分の者 にてだに=でさえ、なほ=やはり、さりぬべき=そうなる(恋してしまう)のも当然 あたりのことは=という女性には、 このましうおぼゆるものを=ほれてしまうのだから、 と思ひをり=(惟光は)考えていた。 「もし=もしかして、見たまへ得(う)る=より多くの情報を得られる こともやはべると=こともありましょうかと、 はかなきついで=わずかな手段を 作り出(い)でて=作って(侍女と仲良くなって)、 消息(せうそこ)=ちょっとしたメッセージ など遣(つか)はしたりき=送りました。 書き馴れたる手して=筆跡で 口とく=すばやく 返り事(かへりごと)などしはべりき=返事をよこします。 いと口惜(くちを)しうはあらぬ=それほど残念ではない(ちょっといかした) 若人(わかうど)どもなむはべるめる=若いむすめたちが(仕えて)いるようです」 と聞(き)こゆれば=申し上げると、  「なほ=もっと 言ひ寄れ。尋(たづ)ね寄らでは=(ここまでくれば)確かめないと、 さうざうしかりなむ=もの足りない」 とのたまふ=おっしゃる。 かの、下が下(しもがしも)と、人の思ひ捨てし=あの人(光源氏の友人の頭中将(とうのちゅうじょう))が「最低だ」と見捨てた 住まひなれど、その中にも、思ひのほかに口惜(くちを)しからぬ=残念ではない(ちょっといい女) を見つけたらば=見つけることができれば と、めづらしく思(おも)ほすなりけり=すばらしいとお思いになったのである。・・・ ・・・まことや=まったくね、 かの惟光(これみつ)が=の 預(あづか)りの=担当の かいま見(み)は=興味ある女性の家への調査は いとよく案内(あない)見取りて申す=とても最高に家の事情を確認してご報告申しあげる。・・・ ・・・惟光(これみつ)、いささかのことも=わずかなことでも 御心(おんこころ)に=光源氏さまの意図に 違(たが)はじ=たがわず実行しよう と思ふに=思う一方で、 おのれも=自分も 隈(くま)なき=残りのない 好き心(すきごころ)にて=色好みを実践し、 いみじくたばかりまどひ歩きつつ=女の家のさまざま者たちにうそをつき、しひて=無理に おはしまさせ初(そ)めてけり=(光源氏さまが女のもとに)通い始めるようにさせた。 このほどのこと=この間の事情は、 くだくだしければ=冗長なので、 例の=いつものように もらしつ=省略した。女­=女に対しては、 さしてその人と=その氏素性を 尋(たず)ね出(い)でたまはねば=詮索なさらない(ことに光源氏さまは決めたので)、 我も名のりをしたまはで=(ご自身も自分の身をあかさず)、  いとわりなく=無理やり やつれたまひつつ=みすぼらしくなさる上に、 例(れゐ)ならず=(貴人の)通例に反して 下(お)り立ちありきたまふは=車にのらないで徒歩でお通いになるのは、 おろかに=(女のことを)おろそかには 思(おぼ)されぬなるべし=お考えになっていないのだろう、 と見れば=(と惟光は)判断したので、 我が馬(むま)をばたてまつりて=(惟光は)自分の乗馬を光源氏さまにさしあげて、 御供(おんとも)に走りありく=お供として走りまわった。 「懸想人(けさうびと)の=恋する男の いとものげなき=それなりの人物とは到底言えない 足もとを、見つけられてはべらむ時=見られてしまいますときは、 からくもあるべきかな=つらくもありますなあ」 とわぶれど=(惟光は)なげくが、 人に知らせたまはぬままに=(光源氏さまは)あいかわらず誰にも知らせなさらず、 かの夕顔のしるべせし随身(ずゐじん)ばかり=夕顔の花を説明してこのたびの恋のきっかけをつくった警護の武者だけ、 さては=加えて、 顔むげに知るまじき=顔が相手にまったく知られていないはずの 童(わらは)ひとりばかりぞ=男児の召使だけを、 率(ゐ)ておはしける=ともとしてつれていらっしゃる。「もし=もしかして 思ひよる気色(けしき)もや=(光源氏さまの身元が)気づかれるわずかなきっかけになるかもしれない」 とて、隣(となり)に=隣の家(乳母の養生先)に 中宿(なかやどり)をだにしたまはず=道中に立ち寄ることさえなさらない。 女も、いとあやしく心得(こころえ)ぬ心地(ここち)のみして=(光源氏さまが素性を明かさないので)女もとても不審に思い理解できない気持ちが強いので、 御使(おんつかひ)に人を添へ=(光源氏さまの手紙の)使者が(帰るときに)あとをつけさせ、 暁(あかつき)の道をうかがはせ=(光源氏さまが)あさ(女の家からお帰りになるときにも)あとをつけさせ、 御(おん)ありか見せむと尋(たづ)ぬれど=(光源氏さまの)住所を確かめようとするが、 そこはことなくまどはし=(光源氏さまは)住所がわからないようにごまかす つつ=一方で、 さすがに=やはり あはれに=(彼女のことが)かわいそうで 見ではえあるまじく=会わないではいられないように この人の御心(おんこころ)にかかりたれば=光源氏さまの心を占めているので、 便(びん)なくかろがろしきことと=不都合で軽薄だと、 思(おも)ほし返しわび=何度も反省なさり悩む つつ=一方で、 いとしばしばおはします=頻繁に女のところにお通いになる。  かかる筋(すぢ)は=このような(恋の)分野では、 まめ人(びと)=浮気心のないひと の=が 乱るる折(をり)もあるを=乱れるときもあるのに、 いとめやすくしづめたまひて=(これまで光源氏さまは)つとめて冷静かつスマートに行動して、 人のとがめきこゆべき振る舞ひはしたまはざりつるを=他人が非難申し上げるような行為はなさらなかったのに、 あやしきまで=(今回の恋に関しては)不思議なほど、 今朝(けさ)のほど、昼間(ひるま)の隔(へだ)ても=たったいま女の家を出た朝も・夜まで会えない昼間も、 おぼつかなくなど=不安になるなど、 思ひわづらはれたまへば=お悩みになるので、 かつは=一方では、 いともの狂ほしく=理性を失うほど、 さまで=そこまで 心とどむべきことのさまにもあらずと=執心する場合ではないと、 いみじく思ひさましたまふに=冷静さを保つ努力をなさるが、 人のけはひ、いとあさましくやはらかにおほどきて=(もう一方では)彼女のものごしが驚くほどソフトでのんびりしており、 もの深く重き方はおくれて=分別や思慮の面では浅く、 ひたぶるに若びたる=どうしようもなく幼稚 ものから=ではあるが、 世をまだ知らぬ=夫婦関係をしらない にもあらず=のでもない、 いとやむごとなきにはあるまじ=たいして高い身分ではないだろう(それなのに)、 いづくにいとかうしもとまる心ぞ=(彼女の)どこにこれほど魅かれるのか、 と返す返す思(おぼ)す=なんどもお考えになる。 人目を思(おぼ)して=人目を気になさって、 隔(へだ)ておきたまふ=女の家に通えない 夜(よ)な夜(よ)な=夜 などは、 いと忍びがたく=とてもこらえきれなくて、 苦しきまでおぼえたまへば=とてもつらくお感じになるので、 「なほ=(障害もあるが)やはり 誰(た)れとなくて=自分の素性をあかさないまま 二条院=光源氏の私邸 に迎へてむ=女を住まわせよう。 もし聞こえありて=うわさになって 便(びん)なかるべきことなりとも=都合のわるいことになっても、 さるべきにこそは=そうなるべき運命なのだ。 我が心ながら=自分の心であっても(どうにもならず)、 いとかく人にしむことはなきを=これほど女に心を奪われることがなかったのに、 いかなる契(ちぎ)りにかはありけむ=どんな前世の因縁だったのだろうか」 など思(おも)ほしよる=とまでお考えになってしまう。 「いざ=さあ、 いと心安き所にて=もっと落ち着ける場所で、 のどかに=ゆっくりと 聞こえむ=お話しなどしましょう」など、 語らひたまへば=愛の言葉をおかけになると、 「なほ=まだ、 あやしう=疑わしい。 かく=このように のたまへど=おっしゃるが、 世(よ)づかぬ=ふつうのおつきあいとは違う 御(おん)もてなしなれば=あなたさまの態度なので、 もの恐ろしくこそあれ=すこしこわいのです」 と、いと若びて言へば=(大人の冗談も通じていないように)とても幼稚に対応するので、 「げに=ほんとうにそうだ」 と、ほほ笑(ゑ)まれたまひて=微笑なさって、 「げに=ほんとうに、いづれか=(きみとぼくと)どちらが 狐(きつね)なる=狐であって(人をだます) らむな=だろうね。 ただはかられたまへかし=まよわずだまされなさいよ」と、 なつかしげに=親しく  のたまへば=おっしゃったので、 女もいみじくなびきて=光源氏さまのことばに感動して、 さもありぬべく=そうなってもかまわない 思ひたり=と思うようになった。 「世になく=ほかに例のないほど、 かたはなることなりとも=不完全なことであっても、 ひたぶるに従ふ心は=ひさすら自分を慕ってくれるこころは、 いとあはれげなる人=とてもいとおしい人だ。」 と見たまふ=(女を)ご覧になる。 八月(はづき)十五夜(とをかあまりいつかのよ)=中秋の名月の夜、 隈(くま)なき月影(つきかげ)=満月の光が、 隙(ひま)多かる板屋(いたや)=板壁のたくさんのすきまから、 残りなく漏りて来て、見慣らひたまはぬ=見慣れていらっしゃらない 住まひのさまも珍しきに=住居のようすがめずらしい、 暁(あかつき)近くなりにけるなるべし=夜明けが近づいたのだろう、 隣の家々、あやしき賤(しづ)の男(を)=下賎な庶民 の声々、目さまして 「あはれ=まったく、 いと寒しや=ずいぶん冷え込むね」 「今年こそ=今年は特に、 なりはひにも頼むところすくなく=生業にほとんど期待できないし、 田舎の通ひも思ひかけねば=行商にも望みがもてないので、 いと心細けれ=とても心配だ。北殿(きたどの)=北どなり こそ=さーん、 聞きたまふや=お聞きになっていますか」 など言ひ交はすも聞こゆ=ことばをかわしているのも聞こえる。 いとあはれなる=とてもはかない おのがじしの営み=各自の生活 に起き出(い)でて、そそめき=ざわざわと 騒ぐもほどなきを=騒ぐ声もすぐとなりから聞こえるので、 女いと=とても 恥づかしく思ひたり。 艶(えん)だち=派手で 気色(けしき)ばまむ=気取るような人は、 消えも入りぬべき=(恥ずかしさのあまり)身をかくしてしまいたいような 住まひのさまなめりかし=住宅事情のようだね。 されど=しかし(女は)、 のどかに=おっとりとしていて、 つらきも憂(う)きもかたはらいたきことも=苦しいこともつらいこともみっともないことも、 思ひ入(い)れたるさまならで=まったく気にしていないようで、 我(わ)がもてなしありさまは=(光源氏さまに)対する彼女の態度は、 いとあてはかにこめかしくて=とても高貴で子供のように無邪気であり、 またなくらうがはしき隣(となり)の用意なさを=どうしようもなくさわがしい近所の無遠慮さについて、 いかなることとも聞き知りたるさまならねば=どんなことと理解しているようではないので、 なかなか=かえって、 恥ぢかがやかむよりは=恥じて赤面するよりは、 罪(つみ)許されてぞ見えける=欠点が許されるように思われる。 ごほごほと=ゴロゴロと 鳴る神(なるかみ) =かみなり よりもおどろおどろしく=おおげさに、 踏み轟(とどろ)かす=足で踏んでまわし音が響く 唐臼(からうす)の音も枕上(まくらがみ) =枕元 とおぼゆる=と思われる。 「あな=ああ、 耳かしかまし=やかましい」 と、これにぞ思(おぼ)さるる=これだけは(がまんできないように)お感じになる。 何の響きとも聞き入(い)れたまはず=何の音だとも理解なさらず、 いとあやしう=とても不思議で めざましき=いやな 音(おと)なひ=外から聞こえてくる音 とのみ聞きたまふ=としてだけお聞きになる。 くだくだしき=わずらわしい ことのみ多かり。 白妙(しろたへ)の衣(ころも)うつ砧(きぬた) =絹に光沢を与えるために生地を打つ木槌 の音も、かすかにこなたかなた=あちこちから 聞きわたされ=聞こえてくる、 空飛ぶ雁(かり)の声、取り集めて=ひどく 忍びがたき=がまんできない こと多かり。端近(はしぢか)き御座所(おましどころ)なりければ=光源氏さまのいらっしゃる所が屋敷の奥ではなく外に近い所なので、 遣戸(やりど)を引きあけて=引き戸をあけて、 もろともに=女といっしょに 見出(い)だしたまふ=外をご覧になる。 ほどなき庭に=空間のない庭に、 されたる=しゃれた  呉竹(くれたけ)=中国渡来の竹、 前栽(せんざい) =植えてある庭の草木の  露は、なほ=やはり かかる所も=このような貧しい場所でも 同じごと=(高貴な館と)同じように きらめきたり=輝いている。 虫の声々乱りがはしく=さまざまな虫たちが鳴き騒ぎ、 壁のなかのきりぎりす=こおろぎ だに=さえ 間遠(まどほ)に聞き慣らひたまへる=(大きな屋敷なので)遠くから聞こえる状態に慣れていらっしゃるので、 御耳(おんみみ)にさし当てたるやうに鳴き乱るるを=耳のすぐそばでやかましく鳴いている様子を、なかなか=かえって さまかへて思さるるも=新鮮にお思いになるのも、 御心(おんこころ)ざし一つの浅からぬに=女に向けた光源氏さまのお気持ち全体が深いので、 よろづの罪許さるるなめりかし=すべての欠点が許されるようだね。 白き袷(あはせ)=裏地つきの衣に、 薄色(うすいろ)のなよよかなる=薄紫色でしなやかなころも を重ねて、はなやかならぬ=華美ではない 姿、いとらうたげに=かわいらしく あえかなる=かよわい 心地して、そこと取り立ててすぐれたることもなけれど=特定できる長所はないが、 細(ほそ)やかに=なよなよと たをたをとして=なびくような感じで、 ものうち言ひたるけはひ=ひとことふたこと言葉を発する様子は、 「あな=ああ、 心苦し=胸がにぐっとくる」 と、ただいとらうたく=ただただかわいらしく 見ゆ=見える。 心ばみたる方=気取る要素 をすこし添へたらば=加えたら(もっと魅力的なのに)、 と見たまひながら=とご覧になるものの、 なほうちとけて=やはりくつろいで 見まほしく=彼女と語りあいたい 思(おぼ)さるれば=お思いになったので、 「いざ=さあ、 ただこのわたり近き所に=このあたりのすぐ近くで、 心安くて=気兼ねなく 明かさむ=夜を語り明かそう。 かくてのみはいと苦しかりけり=このままの状態では気詰まりだ」 とのたまへば=おっしゃると、 「いかでか=どうして(可能でしょうか。無理です)。 にはかならむ=急でしょう」と、 いとおいらかに=あっさりと 言ひてゐたり=座っている。 この世のみならぬ契り=来世まで愛するという約束 などまで頼めたまふに=女を自分に頼らせなさると、 うちとくる心ばへ=光源氏さまを信頼して心を開くようす など、あやしく=不思議なほど やう変はりて=普通でなく、 世なれたる人=男女の仲に慣れた人 ともおぼえねば=思われないので、 人の思はむ所も=他人の評価も え憚(はばか)りたまは=気にすることができなさら で=ないで、 右近(うこん)を召し出(い)でて、随身(ずゐぢん)を召させたまひて、御車(おんくるま)引き入(い)れさせたまふ=お車を女の家に入れて(出発の準備をなさる)。 このある人びとも=ここにいて(夕顔に仕えている)ひとびとも、 かかる御心(おんこころ)ざしのおろかならぬを=このような光源氏さまの愛情がいいかげんでないのを 見知れば、おぼめかしながら=不安は残るが、 頼みかけきこえたり=光源氏さまに頼り申し上げた。 いさよふ=(沈むのを)ためらう 月に=満月に、 ゆくりなく=突然 あくがれむことを=さまよい出ることを、 女は思ひやすらひ=ためらい、 とかく=(女のためらいを説きふせようと光源氏さまがあれこれと) のたまふほど=おっしゃっている間に、 にはかに雲隠れて=急に月が雲にかくれて暗くなり、 明けゆく空いとをかし=すばらしい。 はしたなきほど=(明るくなって人目について)不体裁 にならぬ先にと、例(れゐ)の=いつものように 急ぎ出(い)でたまひて=急いで家を出発なさるために、 軽らかにうち乗せたまへれば=女を軽々と抱いて車に お乗せになり、 右近ぞ乗りぬる=侍女の右近も乗る。 そのわたり近き=そのあたりに近い なにがしの院に=某邸宅に おはしまし着きて=到着なさり、 預り=管理人を 召し出(い)づるほど=呼び出している間、 荒れたる門(かど)の=荒れ果てた正門が 忍ぶ草(ぐさ)茂りて見上げられたる=門柱にシダが上まで群生して見える、 たとしへなく=たとえようもなく 木暗(こぐら)し=ほの暗い。 霧も深く、露けきに=朝露が多く、 簾(すだれ)=車の窓 をさへ=までも 上げたまへれば=全開になさっていたので、 御袖(おんそで)もいたく濡れにけり=ぐっしょりと濡れてしまった。 「まだかやうなることを=このようなこと(女を連れての早朝の外出)に 慣らはざりつるを=慣れていないので、 心尽(づ)くしなること=わずらわしいこと にもありけるかな=でもあるなあ。  いにしへも=むかしも かく=このように やは=~か。いや~ 人のまどひけむ=人が迷ったのだろうか。  我がまだ知らぬしののめの道=私がまだ知らない早朝の道慣らひたまへりや=(あなたは)慣れていらっしゃいますか」 とのたまふ=おっしゃる。女、恥ぢらひて、 「山の端(は)の心も=(月が入る)山の稜線の心(女の世話をする男のこころ)も 知らで=知らないで ゆく月は=いく月(女)は  うはの空にて=上空・意識も薄く 影(かげ)=姿 や=か 絶えなむ=なくなってしまうのだろう 心細く」 とて、もの恐ろしう=なにかを怖がっており すごげに=ぞっとするように 思ひたれば=感じているので、 「かの=あの さし集(つど)ひたる=密集して住んでいる 住まひの慣らひ=(せまい)住居の 感覚 ならむ=(のために広い邸宅をこわがるの)だろう」 と、をかしく=おもしろく 思(おぼ)す=お思いになる。
 宵(よひ)過ぐるほど=午後十時を過ぎたころ、 すこし寝入(ねい)りたまへるに=光源氏さまが少しお休みになっていると(夢で)、 御枕上(おんまくらがみ)に=お休みになっている枕元に、 いとをかしげなる女ゐて=とても洗練された女性が座っていて、 「己(おの)が=私の いとめでたしと=(あなたさまを)すばらしいと 見たてまつるをば=見申し上げる(態度に対して)、 尋ね思(おも)ほさで=(あなたは私の所に)訪れて愛してくださらず、 かく=このゆように、 ことなることなき=普通の 人を率(ゐ)て=連れて おはして=いらっしゃって、 時(とき)めかしたまふ=寵愛なさる こそ、いとめざましく=とても心外で つらけれ=(あなたは)むごい」 とて、この御(おん)かたはらの人=光源氏さまの横に寝ている女(夕顔) をかき起こさむとす、と見たまふ=(夢で)ご覧になる。 物に襲(おそ)はるる=なにかに襲われる 心地(ここち)して、おどろきたまへれば=目をお覚ましになると、 火=灯火 も消えにけり。うたて=いやな 思(おぼ)さるれば=感じがしたので、 太刀を引き抜きて、うち置きたまひて=(用心のために)太刀を抜いてそばに置きなさり、 右近を起こしたまふ=起こしなさる。 これ=右近 も恐ろしと思ひたるさまにて=様子で、 参り寄れり=(光源氏さまのところに)近寄ってきた。 「渡殿(わたどの)なる=従者の控え室にいる 宿直人(とのゐびと)=宿直の者を 起こして、『紙燭(しそく)=細いたいまつの火を さして=かかげて 参れ=こちらに来い』 と言へ」とのたまへば=(右近に)おっしゃると、 「いかでか=どうして まからむ=(ここを)出て行くことができましょうか、無理です。 暗うて=真っ暗なので」 と言へば=(光源氏さまに右近が)言うので、 「あな=ああ、 若々し=(悪い意味で)子供らしい」と、 うち笑(わら)ひたまひて=ちょっとお笑いになって、 手をたたきたまへば=おたたきになると、 山彦(やまびこ)の答ふる声=拍手の反響音が、 いとうとまし=気持ち悪い。 人え聞きつけで=誰も手の音を聞きつけないで 参らぬに=光源氏さまのところに来ない、 この女君、いみじくわななきまどひて=ひどくふるえ、 いかさまにせむと思へり=どうしようかと思っている。 汗もしとど=びっしょり になりて、我(われ)かの気色(けしき)なり=茫然自失の様子だ。 「物怖(ものお)ぢをなむわりなくせさせたまふ=何に対してもとてもこわがる 本性(ほんせう)にて=性格であり、 いかに思(おぼ)さるるにか=(この事態を)どれほど(こわく)お思いになっているか」 と、右近も聞(き)こゆ=申し上げる。 「いとか弱くて=(彼女は)気弱で、 昼も空(そら)をのみ見つるものを=ただ空をながめてくらしているありさまなのに、 いとほし=気の毒だ」 と思して=お思いになって、 「我(われ)、人を起こさむ=私が(むこうに行って)人を起こしてこよう。 手たたけば、山彦の答ふる、いとうるさし=気味悪い。 ここに、しばし=(お前は)ここにしばらくいろ。 近く=もっと私の近くに寄れ」 とて、右近を引き寄せたまひて=なさって、西の妻戸(つまど)=押して開ける戸 に出(い)でて、戸を押しあけたまへれば=押してあけなさると、 渡殿(わたどの)の火も消えにけり=あかりも消えていた。 風すこしうち吹きたるに=風が少し吹いている、 人は少なくて、さぶらふ限りみな寝たり=お仕えする人はもともと少なく、しかも全員が寝入っている。 この院の預りの子=この邸宅の管理者の子で、 むつましく使ひたまふ=光源氏さまが親密にお使いになっていた 若き男、また上童(うへわらは)ひとり=ほかに貴人の世話をする童子がひとりと、 例の随身(ずゐぢん)=いつもおそばにいる警護の武者 ばかりぞありける=だけがいた。 召せば、御答へ(おこた)して=(預かりの子を)お呼びになると返事をして 起きたれば=起きてきたので、 「紙燭(しそく)さして=細いたいまつをかかげて 参れ=こっちへ来い。 『随身も、弦打(つるうち)して=魔よけのために弓の弦を鳴らして、 絶えず声(こわ)づくれ=声を出し続けよ』 と仰(おお)せよ=命じよ。 人離れたる所に=人家のない場所で、 心とけて寝(い)ぬるものか=警戒心を解いて寝てよいものか。 惟光(これみつ)朝臣(あそん)の来(き)たりつらむは=惟光どのも来ているはずだが」 と、問はせたまへば=おたずねになると、 「さぶらひつれど=ひかえておりましたが、 仰せ言(おほせごと)=ご命令 もなし。暁(あかつき)に=(いったん帰って)明け方に 御迎(おむか)へに参る=お迎えに参上する べきよし申してなむ、まかではべりぬる=退出いたしました」 と聞(き)こゆ=申し上げる。 この、かう申す者は、滝口(たきぐち)なりければ=このように申し上げた者は、宮中警護の武者だったので  弓弦(ゆづる)いとつきづきしく=その職務に似つかわしく弓の弦を うち鳴らして、「火あやふし=火の用心」 と言ふ言ふ=言いながら、 預りが曹司(ざうし)=管理人の部屋 の方(かた)に去(い)ぬなり=行ったようだ。帰り入(い)りて=(光源氏さまが若者に指示を出した後、部屋に)帰り、 探りたまへば=(暗闇の中を)手探りなさると、 女君はさながら=先ほどと同じ状態で 臥(ふ)して=倒れており、 右近はかたはらにうつぶし臥(ふ)したり=その横に顔を下にして横たわっていた。 「こはなぞ=これはどうしたことか。 あな=ああ、 もの狂(ぐる)ほしの=理性の抑制を失った 物怖(ものを)ぢや=こわがりようだ。 荒れたる所は、狐などやうのものの=キツネなどといったものが、 人を脅(おび)やかさむとて=人間をこわがらせようとして、 け恐ろしう思(おも)はするならむ=うす気味悪く思わせるのだろう。 まろあれば=私がいるので、 さやうの=そのような ものには脅(おびやか)されじ=おどろかされるものか」 とて、引き起こしたまふ=ゆすって起こしなさる。 「いとうたて=とてもいやだ、 乱(みだ)り心地(ごこち)の悪(あ)しうはべれば=気分が悪うございますので、 うつぶし臥(ふ)してはべるや=ふせっておりますの。 御前(おまへ)に=ご主人さま(夕顔) こそわりなく=の方が私よりずっと混乱して 思(おぼ)さるらめ=感じていらっしゃるだろう」 と言へば=言うと、 「そよ=そうだ(女君が心配だ)。 などかうは=どうしてこのように(倒れたままなのですか)」 とて、かい探りたまふに=手探りなさったが、 息もせず。引き動かしたまへど=ゆすって動かしなさるが、 なよなよとして=ゆすられるがままで、 我(われ)にもあらぬさまなれば=意識がない様子なので、 「いといたく若びたる人にて=とても子供じみた人なので、 物にけどられぬるなめり=もののけに魂を奪われたのだろう」 と、せむかたなき=どうしようもない 心地(ここち)したまふ=気持ちにおなりになる。 紙燭(しそく) =細いたいまつを 持て参(まゐ)れり=持って管理人の息子がやってきた。 右近も動くべきさまにもあらねば=動けそうもないので、 近き御几帳(みきちょう) =(異例ではあるが光源氏さまがみずから)近くのついたて を引き寄せて=をひきよせて(夕顔を隠し)、 「なほ持て参れ=もっと近くにもって来い」 とのたまふ=おっしゃる。 例(れゐ)ならぬことにて=(身分の低いこの男が光源氏さまの寝床ちかくに行くことは)異例で許されないことなので、  御前(おまへ)近くもえ参らぬ=(光源氏さまの)近くにすら近寄ることができない、 つつましさに=遠慮して、 長押(なげし)にもえ上らず=縁側と部屋の境にも上ることができない。 「なほ持て来(こ)や=もっと近くに持って来い、 所(ところ)に従ひてこそ=場所に従ってこそ(適切だ。いまは緊急事態だがら異例を恐れるな)」 とて、召し寄せて=(あかりを)よび寄せて 見たまへば=ご覧になると、 ただこの枕上(まくらがみ)に=枕もとのすぐそばで、 夢に見えつる=夢で見た かたちしたる女=容貌の女が、 面影(おもかげ)に=映像だけ 見えて、ふと消え失(う)せぬ=たちまち消えてしまった。 「昔の物語などにこそ、かかることは聞け=このようなことを聞いたことがある」 と、いとめづらかに=初めての体験で むくつけけれど=気味が悪いが、 まづ、「この人いかになりぬるぞ=この人(夕顔)はどうなったのだろう」 と思(おも)ほす心騒(こころさわ)ぎに=お思いになり心配でたまらず、 身(み)の上(うへ)も=ご自身の身の安全も 知られたまはず=お考えになることができず、 添ひ臥(ふ)して=横になって彼女を抱き、 「やや=おいおい」 と、おどろかしたまへど=起こしなさるが、 ただ冷(ひ)えに冷え入(い)りて=体がとても冷たくなっていて、 息は疾(と)く絶え果てにけり=ずいぶん前に息たえてしまっていた。 言はむかたなし=言葉もでない。 頼もしく=頼りになり、 いかにと言ひ触(ふ)れたまふべき=(このような場合に)どのようにすればよいのかと相談すべき 人もなし。法師などをこそは、かかる方(かた)の頼もしきものには思(おぼ)すべけれど=僧侶などならこのような場合に頼りになる者とお思いになるだろうが。 さこそ強がりたまへど=(光源氏さまは)ずいぶん虚勢をはっていらっしゃったが、 若き御心(おんこころ)にて=まだ心は少年であり、 いふかひなくなりぬるを=女君が死んでしまったのを 見たまふに=ご覧になると、 やるかたなくて=とてもつらくなって、 つと抱(いだ)きて=女君を抱きしめて、 「あが=わが 君(きみ)、生き出(い)でたまへ=息をふきかえしてください。 いといみじき目=ひどい目を な見せたまひそ=私にみせないでください」 とのたまへど=おっしゃるが、 冷(ひ)え入(い)りにたれば=体が冷え切ってしまうと、 けはひ=生前の様子が ものうとくなりゆく=少しずつなくなっていく。